脊髄損傷(せきずいそんしょう)は、突然の事故などで脊髄という神経の束が傷つき、重い麻痺(まひ)や感覚障害を引き起こす深刻な状態です。
現在の医療では、外科的な骨の固定や薬による炎症抑制、リハビリテーションなどでこれ以上悪くならないようにすることが中心で、いったん失われた神経機能を元通りに「治す」治療法はまだ確立されていません。
このため、脊髄損傷の患者さんは長期にわたり麻痺などの後遺症と向き合うことになります。しかし近年、「再生医療」として幹細胞治療が注目され、脊髄損傷でも諦めずに改善を目指せる新たな可能性が見えてきました。
以下では、現在の治療の課題と幹細胞治療による新たな展望、作用メカニズム、有効性のエビデンス、安全性などについて、一般の方にも分かりやすいように丁寧に解説します。
脊髄損傷と現在の治療の課題
脊髄は脳からの指令を身体に伝える「神経の幹線道路」に例えられます。
この脊髄が傷つくと、その下位の神経回路への信号が途絶えてしまい、たとえば交通事故で幹線道路が寸断されたように、脳から先の「信号」が通らなくなります。
その結果、損傷部位より下の箇所で手足が動かせない、感覚がないといった麻痺状態に陥ります。また排尿・排便や発汗など自律神経の機能にも障害が生じ、生活の質に大きな影響が出ます。
現在の標準治療では、まず事故直後の急性期に外科手術で骨折した骨や飛び出した椎間板による脊髄の圧迫を取り除き、脊椎を固定します。同時にステロイド投与などで二次的な損傷(炎症やむくみによる神経ダメージ)の拡大を抑える処置が行われます。
その後はリハビリテーションによって、残存する神経機能でできる限り身体を動かせるよう訓練することが中心になります。
しかし一度切断された脊髄の神経線維は自然には再生しにくいため、現行の治療だけでは失われた機能を根本から回復させることは難しいのが現状です。
脊髄損傷の後遺症に対して効果的な治療法がないことは、日本でも大きな課題であり、国内の患者数は15万人以上、毎年約5千人が新たに損傷を負っています。
このように厳しい状況ではありますが、患者さんとご家族にとって希望となる新たなアプローチが登場しています。
それが再生医療による幹細胞治療です。
従来「慢性期(ケガから時間が経ったあとの状態)では回復は見込めない」とも言われてきましたが、最近の研究成果はこの常識を覆しつつあります。幹細胞治療の登場により、脊髄損傷から時間が経った方でも機能改善の可能性が見えてきたのです。
脊髄損傷に対する幹細胞治療と再生医療の新たな可能性
幹細胞治療とは、身体の中でさまざまな細胞に分化したり組織の修復を助けたりする能力を持つ「幹細胞」を用いて、損傷した組織の再生を図る治療法です。
脊髄損傷への再生医療として、幹細胞を脊髄の損傷部位に移植したり、点滴で体内に入れたりする治療が世界中で研究・実施されています。
幹細胞にはいくつか種類があります。たとえば患者さん自身の骨髄由来や脂肪由来の幹細胞、あるいは他者の臍帯(さいたい:へその緒)由来の幹細胞などです。
なかでも臍帯に含まれる「ウォートンジェリー由来幹細胞(WJ-MSC)」は、高い増殖力と分化能力、免疫を拒絶されにくい特性を持ち、脊髄損傷の治療において有望とされています(ウォートンジェリー由来幹細胞の詳細な特性については本記事では割愛しますが、その有効性が示唆されています)。
これら幹細胞を用いた治療は、損傷した脊髄そのものを修復・再生させる可能性を秘めており、従来の治療では得られなかった麻痺の回復や機能改善が期待されています。
再生医療の新たな可能性として、海外ではすでに臨床研究や一部の治療が進んでいます。例えばアメリカのメイヨー・クリニックで行われた臨床試験では、患者自身の脂肪由来幹細胞を用いた治療によって10人中7人の患者さんで麻痺の重症度が改善し、安全性も確認されました。
日本でも、慶應義塾大学がiPS細胞由来の神経前駆細胞を移植する世界初の試みを行い、4人中2人の脊髄損傷患者さんで運動機能の改善が見られたと報告されています。
このように幹細胞を用いた再生医療は世界的に見ても脊髄損傷に対する新たな希望として注目されているのです。
脊髄損傷に対する幹細胞治療の作用メカニズム
なぜ幹細胞を入れると脊髄損傷が良くなるのか?
大きく分けて幹細胞治療には次のような作用メカニズムがあると考えられています。
損傷部位への集積:
幹細胞は体内に入ると傷ついた部位を自ら探し出し、そこに集まる性質があります。まるで体内の「修理隊」のように、損傷した脊髄へ幹細胞が集結し、治癒活動を開始します。
炎症の抑制:
脊髄損傷後は過剰な炎症反応が起こり、いわば「暴走した免疫」にブレーキをかけることが必要です。幹細胞には免疫を調節する能力があり、傷ついた場所で異常に高まった炎症を沈めます。
具体的には、免疫細胞に直接作用したり、炎症を抑える物質を出すことで、二次的な神経細胞のダメージを減らします。
成長因子などの分泌:
幹細胞は「サイトカイン」や「成長因子」と呼ばれる生理活性物質を豊富に分泌します。これらは総称してセクレトームとも呼ばれ、神経の生存・再生を助けるカギとなります。
例えばBDNF(脳由来神経栄養因子)やNGF(神経成長因子)といった物質が出され、傷ついた神経細胞に栄養と成長の指令を与えることで軸索(神経の線維)の再生を促進します。
言わば、幹細胞は「荒れた庭に栄養たっぷりの肥料をまいて新しい芽を育てる」ような役割を果たします。
瘢痕組織の改善と血流の確保:
脊髄が傷つくと、その周囲にグリア細胞というもので瘢痕(はんこん)組織(いわゆる傷跡のようなもの)が形成され、これが物理的な壁となって神経の再生を妨げます。
幹細胞はこの「傷跡の壁」を部分的に整理し柔らかくする作用があることが研究で示されています。
また、傷んだ箇所で減ってしまった毛細血管などの血流を回復させるため、新しい血管を作るのも幹細胞の得意な働きです。こうして損傷部位の環境を整え、神経が再び伸び伸びと伸長できる下地を作ります(更地を整備して橋を架け直すイメージです)。
実際、幹細胞やその分泌物(セクレトーム)を使った実験では、傷による瘢痕組織の構造変化や血管新生の促進、神経線維の伸長(再生)の促進が確認されています。
組織・細胞の置き換え:
幹細胞自体が神経のもとになる細胞や支持細胞(グリア細胞など)に分化し、失われた細胞を補う可能性もあります。
ただし脊髄の場合、幹細胞が直接ニューロン(神経細胞)そのものに置き換わる割合は多くないとされ、むしろ上述の環境改善や保護作用による間接的な修復効果が重要と考えられています。
以上のように、幹細胞治療は多角的に脊髄のダメージをコントロールし、再生を促すことで効果を発揮します。一言で表現すれば、「壊れて途切れた神経回路に、幹細胞が架け橋をかけ、修復作業を助ける」イメージです。
このメカニズムのおかげで、従来は不可能と思われた脊髄の再生が少しずつ現実味を帯びてきました。
脊髄損傷に対する幹細胞治療の有効性のエビデンス
幹細胞治療によって脊髄損傷の機能が実際に改善した例は、研究段階ながら世界中から報告され始めています。その主なエビデンス(科学的根拠)をいくつかご紹介します。
感覚機能の改善(臨床試験・慢性期):
スペインで行われた慢性期脊髄損傷の臨床試験では、患者さんの腰部に臍帯由来の幹細胞(WJ-MSC)を1回注入する治療を実施しました。
その結果、損傷高位の下にあたる皮膚分節で痛覚(ピンプリック感覚)が有意に改善することが確認されています。脊髄損傷後長い年月が経った患者さんでも、一部ではありますが感覚が戻るという希望の持てる結果です。
また膀胱機能(貯尿量の増加や過活動の軽減)など、自律神経系の改善も一部の患者さんで見られました。
運動機能の改善(臨床試験・サブアキュート~慢性期):
アメリカのメイヨー・クリニックで行われた脂肪由来間葉系幹細胞(AD-MSC)の臨床試験(CELLTOP試験)では、外傷性脊髄損傷の患者さん10名に幹細胞を移植し、2年間経過を追いました。
結果、10名中7名で神経機能のグレードが1段階以上改善(AISグレード※が上昇)し、特に1名は治療後に上肢・下肢の機能が顕著に回復する「スーパーレスポンダー」となりました。
歴史的には「脊髄損傷の重度麻痺は良くならない」と信じられてきましたが、この研究は幹細胞治療により麻痺の改善が起こり得ることを示しています。
総合的な機能改善(臨床研究・日本):
日本においても、再生医療の最先端の臨床研究が進んでいます。
慶應義塾大学の研究では、iPS細胞由来の神経前駆細胞を脊髄損傷患者さんに移植し、その4例中2例で歩行や手の動きなどの運動機能が向上したと報告されました。
これは世界初の試みであり、日本発のエビデンスとして注目されています。
動物実験での有望な結果:
ヒトでの臨床例だけでなく、動物モデルでの研究も数多く行われています。
マウスやラットの脊髄損傷モデルに対して骨髄や臍帯由来の幹細胞を投与したところ、後肢の運動機能が改善し、脊髄組織内で軸索の再生や瘢痕の減少が確認されたという報告が蓄積しています。
これら前臨床研究の成果があったからこそ、人への臨床応用へと道が拓かれてきたのです。
Aが完全麻痺、B~Dが不完全麻痺、Eが正常。
感覚が戻った例、運動が向上した例、自律神経機能が改善した例など、劇的な「完治」とまではいかなくとも患者さんの生活の質を高める有意な改善が生じたケースが報告されているのです。
もちろん、すべての患者さんに同じような効果が得られるわけではありません。個人差が大きく、中には効果がはっきりしなかったケースもあります。
しかし、従来は「治らない」と思われていた脊髄損傷でこのような前向きな変化が起こりうること自体が画期的であり、幹細胞治療がもたらす新たな希望といえるでしょう。
脊髄損傷に対する幹細胞治療の安全性と副作用
新しい治療を受けるにあたって心配になるのが安全性です。幹細胞治療は比較的新しい分野ですが、現在までの研究から比較的安全性が高いことが示唆されています。
以下にポイントをまとめます。
重篤な副作用はほとんど報告されていません
幹細胞治療を受けた脊髄損傷患者さんにおいて、命に関わるような重い副作用や合併症は現在のところ報告されていません。
例えば前述のメイヨー・クリニックの臨床試験でも深刻な有害事象は一例も発生しませんでした。同様に、臍帯由来幹細胞を髄腔内に投与する治験でも重大な副作用は認められていません。
これは幹細胞自体が元々体内に存在する細胞であり、適切に準備・管理された細胞を用いれば人体に比較的なじみやすいことによります。
主な副作用は一過性のものが多いです
幹細胞治療後に報告されている副作用の多くは軽度で一時的なものです。具体的には、頭痛、発熱、一時的な血圧変動、注射部位の痛みなどが挙げられます。
これらは通常、数日以内に消失し、鎮痛剤や解熱剤の対症療法で十分対応可能とされています。
感染症予防のため細心の無菌操作が行われますが、万一の感染リスクにも抗生剤投与などで対処できる体制を整えて治療が行われています。
免疫拒絶や腫瘍化のリスクにも注意を払っています
他人由来の幹細胞(例えば臍帯由来WJ-MSCなど)を使う場合、「拒絶反応」が起きないのか心配になるかもしれません。しかし間葉系幹細胞(MSC)は特性上、免疫を強く刺激しにくく、適合しない他人の細胞であっても比較的受け入れられやすいことが分かっています。
それでも複数回の投与を重ねれば抗体ができる可能性もあるため、治療スケジュールは慎重に検討されています。また、幹細胞は増殖能力が高いゆえにがん化(腫瘍化)のリスクも理論上はゼロではありません。
ですが現在臨床で使われている間葉系幹細胞については、そのような腫瘍化の報告はなく、安全性が担保された培養・管理方法が採用されています。
総じて、幹細胞治療の安全性は現在の研究範囲では良好と言えます。
もちろん新しい治療ですので不明な点も残されていますが、だからこそ専門家チームが慎重にデータを蓄積しつつ、患者さんに負担の少ない形で治療を提供できるよう努めています。
患者さんに安心して治療を受けていただくことが最優先であり、安全管理と効果検証が両立する形で臨床が行われています。
おわりに
脊髄損傷に対する幹細胞治療は、絶望を希望に変えつつある先端医療です。これまで不可能だと思われていた脊髄の再生が、幹細胞という「身体の修理屋さん」の活躍によって少しずつ現実のものとなってきています。
臨床研究の結果からは、麻痺した身体に再びわずかでも動きや感覚がよみがえる可能性が示され、患者さん・ご家族に大きな勇気を与えています。
もちろん、幹細胞治療は万能ではなく、現時点では研究段階の側面もあります。しかし、着実に積み重ねられるエビデンスと技術の進歩により、安全性と効果は年々向上しています。
特にウォートンジェリー由来幹細胞(WJ-MSC)のように倫理的な制約が少なく供給源に恵まれた幹細胞は、今後ますます脊髄損傷治療の主役として期待されています。
実際に治療を受けられる施設も徐々に増えており、治験や先進医療の枠組みで治療に参加できるケースも出てきています。
脊髄損傷の治療に「これで終わり」はありません。
患者さんの可能性を少しでも広げるために、医学は日進月歩で前進しています。幹細胞治療はその中でも特にエキサイティングな分野であり、昨日まで動かなかった手が動くようになる、一生感じないと思っていた足に触覚が戻る、といった奇跡のような改善が現実に起こり始めています。
大切なのは、最新の治療情報について正しく理解し、信頼できる医療機関で相談することです。脊髄損傷でお悩みの方やご家族の方も、どうか希望を捨てずにいてください。
幹細胞による再生医療は、まさに「明日への希望」として、皆さまの前に扉を開きつつあります。私たち医療者はその希望を確かなものにすべく、これからも安全性と有効性を追求しながら治療に取り組んでまいります。