緑内障と現在の治療の課題
緑内障は、眼の奥にある視神経が徐々に傷ついていき、視野が欠けていく病気です。
世界では約8千万人もの人が緑内障に苦しんでおり、2040年には1億1千万人を超える患者数に達すると予測されています。多くの場合、眼球内部の圧力(眼圧)の上昇が視神経へのダメージを引き起こす原因とされます。
視神経は、カメラで言えばフィルムから脳へ情報を伝える電線のような役割を果たす重要な神経です。この電線(視神経)が損傷すると脳に映像信号が届かなくなり、視野の一部が見えなくなっていきます。
一度死んでしまった神経細胞は自然には元に戻らないため、緑内障で失われた視野は元に戻せないというのがこれまでの常識でした。
現在の緑内障治療は主に眼圧を下げることを目的としています。
点眼薬(眼圧降下剤)による治療、レーザー治療、手術(線維柱帯切開術やチューブシャント挿入など)といった方法で眼圧をコントロールし、視神経への負担を減らすのが一般的です。
しかし、これらの治療はいずれも「進行を遅らせる」ことが目的であり、傷んだ視神経そのものを修復することはできません。そのため、治療を続けても病状が進んでしまう例や、視野障害が改善しないことに不安を感じる患者さんも少なくありません。
実際、現在利用できる治療法では完全に視力・視野の維持を保証できないのが現状であり、新しいアプローチが求められていました。
緑内障に対する幹細胞治療と再生医療の新たな可能性
こうした中で注目されているのが、再生医療の一分野である「幹細胞治療」です。
幹細胞治療とは、自分自身の細胞やドナー由来の若い細胞(幹細胞)を用いて、傷ついた組織の修復や機能回復を目指す治療法です。これまで不可能とされてきた視神経の再生に挑む最先端のアプローチであり、緑内障に対しても新たな可能性を切り開こうとしています。
特に、間葉系幹細胞(Mesenchymal Stem Cell, MSC)という種類の幹細胞が、眼科領域の再生医療で有望視されています。MSCは骨髄や脂肪、臍帯(さいたい)など様々な組織から採取できますが、中でも注目されているのが臍帯由来(ウォートンジェリー由来)幹細胞です。
臍帯は赤ちゃんと母体をつなぐへその緒のことで、出産後に廃棄される組織ですが、この中のワルトン膠質(ウォートンジェル)には高い能力を持つMSCが豊富に含まれています。
臍帯由来幹細胞は、採取が容易でドナーに負担をかけずに得られる上、他人に移植しても拒絶反応を起こしにくい免疫特権的な性質を持ちます。また、加齢による劣化が少なく若く活発な細胞であるため、骨髄由来や脂肪由来の幹細胞よりも増殖・分化能力が高いことが報告されています。
さらに、これらの細胞は腫瘍化(がん化)しにくいという特長も確認されており、安全面から見ても大きな利点があります。
では、幹細胞治療は具体的に緑内障にどのような希望をもたらすのでしょうか。最大のポイントは、幹細胞が持つ再生・神経保護のパワーです。
研究によれば、MSCは目的の組織において周囲にさまざまな有効物質を放出し、傷ついた細胞の修復や生存を助ける作用があります。例えば、脳や目の神経を保護・再生する成長因子やサイトカインと呼ばれるタンパク質を多数分泌し、ダメージを受けた組織の環境を整えてくれます。
このような幹細胞から分泌される物質の集合体は「セクレトーム」と呼ばれ、いわば細胞が作り出す“治癒のカクテル”と言えます。
幹細胞治療では、このセクレトームの力で視神経を守り、時に再生を促すことで、緑内障による視野悪化を食い止めたり改善したりできる可能性があるのです。
緑内障に対する幹細胞治療の作用メカニズム
緑内障で損なわれる視神経に、幹細胞治療はどう働きかけるのでしょうか。その作用メカニズムは一つではなく、幹細胞が持つ複合的な働きの相乗効果によるものです。
ポイントを整理すると、次のような作用が知られています。
神経の保護(ニューロプロテクション):
幹細胞は脳由来神経栄養因子(BDNF)や神経成長因子(NGF)など、神経を守る様々な物質を分泌します。これらの因子は傷ついた網膜の神経細胞(網膜神経節細胞)に栄養を与え、生存を助けます。
例えるなら、乾燥しかけた植物に栄養たっぷりの水を与えるようなイメージです。幹細胞が出すセクレトームが神経細胞を取り巻く環境を改善し、弱った視神経細胞に活力を与えてくれるのです。
その結果、緑内障で起きる視神経細胞のアポトーシス(計画的な細胞死)を減らし、生き残る細胞を増やす効果が期待されます。
免疫の調整(抗炎症作用):
緑内障の進行には炎症や自己免疫的な反応も関与している可能性があります。MSCには過剰な免疫反応を鎮める作用があり、「免疫のブレーキ役」として働きます。
実際、動物モデルでウォートンジェリー由来MSCを眼内に投与した研究では、炎症性サイトカイン(TNF-αやIL-6など)の量が低下し、炎症を抑えるサイトカイン(TGF-β)が増加すると報告されています。
つまり、幹細胞治療により目の中の有害な炎症が和らぎ、視神経に優しい環境が整えられるのです。炎症という“火事”に対して消火活動を行い、視神経をこれ以上傷つけないよう守る働きといえるでしょう。
組織の再生・修復:
幹細胞は場合によっては必要な細胞に分化(変身)して、欠けたパーツを補う可能性も秘めています。緑内障では大きく2つの再生ターゲットがあります。
一つは眼圧の排出路の修復です。
眼球内の房水を排出する線維柱帯という組織が壊れると眼圧が上がりますが、幹細胞がこの部分の細胞に変化し補充できれば、詰まった排水路を修理して根本的に眼圧を下げることができるかもしれません。
もう一つは視神経(網膜神経節細胞)の再生です。
ダメージを受けた網膜神経節細胞の代わりに、新たな神経細胞を補充できれば失われた視覚情報のルートを再構築できます。
現在のところ、人で完全に新しい視神経細胞を定着させるのは課題が多いものの、マウスを使った研究では移植した幹細胞由来の細胞が網膜で生き残り、光刺激に反応して視覚信号を伝達することに成功したとの報告もあります。
これは将来的に失明した視野を取り戻す夢のような治療につながる可能性を示唆しています。
緑内障に対する幹細胞治療の有効性のエビデンス
幹細胞治療による緑内障治療はまだ新しい分野ですが、少しずつ**効果を示すエビデンス(科学的根拠)**が蓄積されつつあります。
動物モデルでの実験結果や、初期段階の臨床研究の報告から、その可能性が具体的に見えてきました。
動物実験からの報告:
緑内障モデル動物を用いた研究では、幹細胞治療が視神経を保護する有望な結果が得られています。
例えば、ラットの研究で眼内に骨髄由来のMSCを移植したところ、網膜神経節細胞の生存率が向上し、軸索(視神経線維)の損傷が減少しました。これは幹細胞が分泌する因子によって神経細胞の細胞死(アポトーシス)が抑えられたことを示唆します。
また別の研究では、MSCが眼の排水路である線維柱帯周辺に付着・生着し、房水の流出を改善することで眼圧を下げられる可能性も示されています。これらの結果は、幹細胞治療が神経保護と眼圧コントロールの両面から緑内障に効果を発揮しうることを裏付けています。
臨床研究からの報告:
人に対する幹細胞治療はまだ研究段階ですが、世界各地で少人数の臨床試験が始まっています。
その一例として、緑内障患者さんに対する初期的な臨床研究では、幹細胞由来の治療デバイスを眼内に移植し経過を観察しました。その結果、重篤な副作用は認められず安全に施術できただけでなく、視野検査の結果がわずかながら改善したとの報告があります。
視神経線維層の厚み減少が抑えられた(むしろ厚みが増す傾向が見られた)というデータも示され、視神経の萎縮進行を食い止めた可能性が示唆されました。
また、緑内障と類似の網膜の難治疾患に対する他の再生医療研究では、治療を受けた患者の視力や視野が改善し、6ヶ月の経過観察でも重大な合併症が報告されなかった例もあります。
これらは間接的にではありますが、幹細胞治療がヒトの視機能にプラスの効果を及ぼしうることを示す心強いデータと言えるでしょう。もちろん、現時点では症例数が少なく、誰にでも確実に効くと断言できる段階ではありません。
しかし「視野は二度と良くならない」という常識を覆すかもしれない兆しが見えてきており、今後さらに大規模な臨床試験で有効性が検証されていくことが期待されています。
緑内障に対する幹細胞治療の安全性と副作用
新しい治療法となると気になるのが安全性ですが、幹細胞治療に関しては現在までの研究で良好な安全プロファイルが報告されています。
上述のようにMSC、とりわけ臍帯由来のMSCは他人に投与しても免疫拒絶を起こしにくい性質があり、他家移植(ドナー細胞の投与)でも安全に行える点が大きな強みです。
実際、眼科領域で行われている臨床研究でも深刻な副作用や合併症は報告されていません。幹細胞治療を受けた患者さんにおいて、現在までのところ重大な有害事象(重篤な感染症や腫瘍化など)は確認されていないのです。
また、臍帯由来幹細胞は採取段階から無侵襲で安全に得られること、そして培養などの操作を経ても遺伝子的に安定しており腫瘍化しないことが示されています。
これも安全性を支える重要なポイントです。
他の種類の幹細胞(胚由来幹細胞など)では分化の制御が難しく、奇形腫といった腫瘍を形成するリスクが指摘されていましたが、MSCではそのようなリスクが極めて低いと考えられています。
もっとも、医療行為である以上リスクが全くのゼロとは言えません。眼内注射で細胞を投与する場合、注射そのものによる感染や炎症のリスクは理論上わずかに存在します。
しかし、これは通常の眼科治療(例えば抗VEGF剤の硝子体注射など)でも共通のリスクであり、適切な無菌操作と管理の下では限りなく低く抑えられます。また投与後、一時的に眼の充血や霞みが生じる可能性はありますが、いずれも一過性で軽微なものにとどまっています。
幸い現在まで報告されている範囲では、幹細胞治療によって視力が著しく悪化するような副作用は起きていません。むしろ先述の通り、患者さんの多くは治療後に何らかのプラスの変化を感じています。
安全に治療を受けていただくためには、確かな知識と設備を持つ医療機関で適切な管理の下に行われることが大前提です。
今後の大規模臨床試験を通じて長期的な安全性データが蓄積されれば、幹細胞治療は現行治療と遜色ない安全性を備えた選択肢として確立していくでしょう。
おわりに
従来、「失った視野は二度と戻らない」と言われてきた緑内障ですが、幹細胞治療という新たな再生医療の登場によって、希望の光が差し込み始めています。
幹細胞が持つ再生パワーと優れた安全性は、将来的に緑内障の治療パラダイムを大きく変える可能性があります。現在は研究段階とはいえ、日々世界中の研究者・医師たちが臨床応用へ向けて努力を重ねており、実際に恩恵を受ける患者さんも現れ始めています。
大切なのは、決して希望を捨てないことです。進行が心配な方、現行の治療で効果が思わしくない方も、将来の治療オプションとしてこの幹細胞治療が視野に入ってきています。
「もしかしたら視野が良くなるかもしれない」「これ以上悪くならないようにできるかもしれない」という前向きな展望が、生き生きとした日常を取り戻す支えになるでしょう。
私たち医療者も、その希望を現実のものとすべく全力で研究と治療開発を進めています。
緑内障と闘っている皆様へ――幹細胞治療はまだ新しい最先端医療ですが、確実に一歩一歩と実現に近づいています。興味や疑問をお持ちの方は、どうぞ遠慮なく専門の医師にご相談ください。
最新の研究動向や治療の選択肢について詳しくご説明し、皆様の不安を少しでも和らげられれば幸いです。つらい思いをされている患者さんとご家族に、この再生医療の話題が未来への希望として届き、明るい展望を持っていただけることを願っています。
私たちは皆様と共に、緑内障に立ち向かえていける未来を信じています。
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