糖尿病網膜症と現在の治療の課題
糖尿病網膜症は、糖尿病によって網膜の細かい血管が傷つき、視力低下を招く疾患です。高血糖の状態が続くと網膜の血管が詰まったり漏れたりし、酸素不足に陥った網膜は正常な視機能を保てなくなります。
進行すると網膜に新生血管(異常な血管)が生え、それらが出血や網膜剥離を引き起こし、失明の原因にもなりえます。現在、この糖尿病網膜症に対しては主に以下のような対症療法が行われています。
- 血糖コントロールと経過観察: まず基本は血糖値を良好に管理することです。しかし血糖を適切に管理しても、残念ながら網膜症が進行してしまう例もあります。
- レーザー光凝固術: 網膜にレーザーを当て、酸素需要の高い部分を焼き潰すことで、新生血管の発生を抑えます。視力を維持するために有効な治療ですが、根本的に網膜のダメージを回復させるものではありません。
- 抗VEGF薬の硝子体内注射: 網膜に生じた浮腫(むくみ)や異常血管を抑えるため、血管内皮増殖因子(VEGF)を阻害する薬剤を眼球内に定期的に注射します。これによって多くの患者で病変の進行が抑えられますが、月に1回程度の頻回な注射が必要であり、経済的・肉体的な負担が大きい治療です。
- 硝子体手術: 増殖した血管に伴う硝子体出血や網膜剥離が起きた場合には、硝子体手術で眼内の出血や瘢痕組織を取り除きます。高度な医療設備と技術を要する手術ですが、進行した病変を食い止めるための最終手段となります。
しかし、これら現在の治療法はいずれも「進行を遅らせたり止めたりする」ことが目的であり、糖尿病網膜症そのものを完治させる根本治療ではありません。実際、治療を続けても将来的な網膜の損傷や視力低下を完全には避けられないのが現状です。
例えば、抗VEGF薬治療を2年間続けても視力が大きく改善した患者は全体の約3割に留まったとの報告もあり、治療効果に限界があることが示唆されています。また定期的な通院・注射の負担から治療継続が難しいケースも少なくありません。
このように、現在の治療は網膜症の進行を抑えることはできても、傷んだ網膜を元通りに修復することは難しいため、新たな治療手段への期待が高まっています。
長期間にわたる高血糖状態は、体中の血管にダメージを与えます。これは、まるで道路が長年の雨風でひび割れて通行しにくくなるようなものです。
健康な動脈は血液がスムーズに流れる広い通りのような状態ですが、動脈硬化が起こると、血管の内側にコレステロールなどの「プラーク(かたまり)」がたまり、通り道が細くなります。すると血液の流れが悪くなり、必要な酸素や栄養が行き届かなくなってしまいます。
糖尿病網膜症では、こうした現象が目の奥の網膜にある細かい血管で起こります。血管が詰まって血流が悪くなると、網膜の細胞は酸素不足に陥り、ダメージを受けてしまいます。
現在の治療では、このようなダメージの結果として現れる「異常な新しい血管の増殖」や「出血」を抑えるための対症療法が主流です。つまり、起きた問題をその都度抑えるという対応が中心になっています。
しかし、本来目指したいのは、「壊れた血管や網膜の組織そのものを回復させる」こと。そうした根本的なアプローチとして、近年大きく注目されているのが幹細胞治療です。
幹細胞には、傷ついた組織の修復を助けたり、血管の再生を促したりする力があり、網膜の環境を整え直す可能性が期待されています。
糖尿病網膜症に対する幹細胞治療と再生医療の新たな可能性
近年、再生医療の発展により幹細胞を用いた新しい治療法が糖尿病網膜症にも模索されています。幹細胞とは、さまざまな細胞に分化できる能力や組織を修復する能力を持つ特殊な細胞で、いわば体の「予備軍」のような存在です。
この幹細胞を患者さんの体に投与することで、傷んだ網膜の組織を再生・修復し、これまでの治療では困難だった視力の回復や病変の根治を目指すことができます。
実際、糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の研究は世界中で進んでおり、動物を使った実験では幹細胞によって網膜症の進行が遅延し症状が軽減することが確認されています。
例えば、失明したマウスの網膜に幹細胞を移植して視神経細胞の機能回復を図る研究や、高血糖状態の動物に幹細胞由来の因子を投与して網膜の炎症を抑える研究など、さまざまな角度から効果が報告されています。
これらの前臨床研究の成功により、幹細胞治療は糖尿病網膜症の新たな治療の選択肢として大きな期待を集めているのです。
幹細胞にはいくつか種類があります。
患者さんご自身の骨髄から採取する骨髄由来幹細胞や、腹部の脂肪組織から採取する脂肪由来幹細胞、さらには人工的に作製した人工多能性幹細胞(iPS細胞)などが研究されています。その中でも特に注目されているのが、臍帯(へその緒)由来の間葉系幹細胞です。
臍帯の中のワルトンの膠質(ジェリー)と呼ばれる部分から採取される間葉系幹細胞(Wharton’s Jelly-derived MSC: WJ-MSC)は、胎児由来の組織であるため非常に若く増殖能が高いことが特徴です。
また、出産時に得られる臍帯は本来廃棄される組織であり、赤ちゃんや母体への負担無く安全に採取できて倫理的な問題もありません。さらにWJ-MSCは免疫学的に拒絶反応を起こしにくい(免疫寛容性が高い)ことが知られており、他人の臍帯から得た細胞を用いる場合でも移植が成功しやすいと期待されています。
このような理由から、WJ-MSCは糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の候補として有力視されている存在です(※WJ-MSCの詳細な特性については別ページで解説予定です)。
以上のように、幹細胞と再生医療の力を活用すれば、傷ついた網膜組織そのものを修復し、糖尿病網膜症による視力低下を根本から治療できる可能性があります。
これは、現在の対症療法にはない再生医療ならではのメリットであり、患者さんにとって大きな希望となるでしょう。
糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の作用メカニズム
では、なぜ幹細胞治療によって糖尿病網膜症が改善すると考えられているのか――その仕組みについて、できるだけ平易に説明します。幹細胞治療が網膜に作用するメカニズムは一つではなく、複数の働きが相まって治療効果を発揮すると考えられています。
主な作用を挙げると、次のようになります。
炎症や異常な血管増殖を抑える(免疫にブレーキをかける):
糖尿病網膜症では高血糖によるストレスで網膜に慢性的な炎症反応が起こり、ダメージが広がっています。幹細胞は炎症を鎮める様々な物質を放出し、いわば暴走する免疫にブレーキをかけることで網膜を守ります。
また、炎症に伴い増殖する異常な血管(新生血管)も、幹細胞が分泌する因子によって抑制されることが分かっています。このように幹細胞は網膜の環境を落ち着かせ、病的な変化の進行を食い止める役割を果たします。
血管を修復し正常な血流を促す:
幹細胞には傷んだ組織を修復する能力があります。
糖尿病網膜症では詰まった毛細血管や壊れた血管網が問題となりますが、幹細胞は血管の修復を助ける細胞(血管の周りを支えるペリサイトなど)に分化することができると報告されています。
実際、動物実験では幹細胞を眼内に投与することで網膜の毛細血管の密度が高まり、血流が改善することが示されています。これにより網膜に十分な酸素と栄養が行き渡り、組織の壊死や虚血状態を改善できると期待されています。
網膜の神経細胞を保護・再生する:
網膜は神経組織の一部であり、視細胞や神経節細胞など大切な神経細胞が存在します。幹細胞は神経を保護する栄養因子(ニュートロフィンなど)を豊富に分泌し、傷ついた網膜の神経細胞の生存を助けます。
例えば、ラットの網膜神経が損傷するモデルにおいて、ヒトのWJ-MSCを硝子体内に移植したところ、幹細胞から分泌される抗炎症因子や神経栄養因子の作用で網膜神経節細胞の死滅が有意に減少したとの報告があります。
このように幹細胞は網膜の神経細胞を守り、さらには必要に応じて新たな細胞への分化も促すことで、網膜組織の再生につなげると考えられています。
以上のような多角的な作用によって、幹細胞治療は糖尿病網膜症の進行を食い止め、さらには損傷した網膜の構造や機能を回復させるポテンシャルを持っています。
特に幹細胞が分泌する物質の集合体は**「セクレトーム」とも呼ばれ、エクソソーム(細胞が放出する直径50~150nm程度の小胞)に代表される様々な因子が含まれます。
このセクレトームこそが治療効果の主役であり、幹細胞は「自らが変身する」だけでなく「有益な指令を出す」ことで網膜を治療すると言えます。
例えば、幹細胞由来のエクソソームを糖尿病モデルの網膜に投与した研究では、網膜で暴走していたあるシグナル経路(Wnt/βカテニン経路)が抑えられ、それに伴い酸化ストレスや炎症、新生血管の発生が大幅に低減**しました。
この結果は、幹細胞が生み出す物質だけでも十分に網膜症にブレーキをかけられる可能性を示しています。
糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の有効性のエビデンス
幹細胞治療の有効性については、現在までに基礎研究から臨床研究までさまざまなレベルでエビデンス(科学的証拠)が蓄積されつつあります。
前臨床研究(動物実験)からの知見:
糖尿病網膜症モデル動物を用いた数多くの研究で、幹細胞治療の有望な結果が報告されています。
例えば、骨髄由来の間葉系幹細胞から抽出したエクソソーム(幹細胞の分泌小胞)を糖尿病ラットに投与した実験では、網膜の炎症や異常な血管増殖が抑えられ、糖尿病による網膜ダメージが軽減しました。
これは先述した「セクレトーム」の効果を裏付けるもので、細胞そのものではなく幹細胞の放出する因子によって網膜症状が改善することを示しています。また別の研究では、骨髄由来のCD34+幹細胞(血液や血管を再生する能力が高い細胞)を糖尿病モデルマウスの眼内に注射し経過を見たところ、網膜の毛細血管網の密度が有意に増加しました。
つまり、幹細胞を用いることで網膜の血管ネットワークが保たれ、糖尿病による血流不足が改善する可能性が示唆されたのです。このように動物レベルでは、幹細胞治療が糖尿病網膜症の進行を防ぎ、さらには部分的に機能回復させることを示すデータが蓄積されています。
臨床研究(ヒトでの検証)からの知見:
幹細胞治療の効果は、徐々に人間の患者さんを対象とした臨床研究でも報告され始めています。
例えば、中国で行われた臨床試験では、2型糖尿病患者61名を対象に臍帯由来間葉系幹細胞(WJ-MSC)の点滴投与を行い、3年間にわたって経過観察がされました(PubMed ID: 27588104)。
その結果、幹細胞を投与されたグループでは投与されなかった対照グループに比べて糖尿病網膜症を含む合併症の発症率が低下することが示されています。
実際、3年後までに新たに網膜症を発症した患者は幹細胞治療群で16.1%だったのに対し、対照群では26.7%と有意に高く、幹細胞治療が網膜症の予防・進行抑制に寄与した可能性があります。
さらに興味深いことに、この試験では血糖コントロール指標(HbA1cや血中ペプチド値)の改善も認められており、幹細胞治療が全身の糖代謝を改善することで間接的に網膜症を緩和した可能性も示唆されています。
いずれにせよ、ヒトにおいて幹細胞治療が糖尿病網膜症の経過に良い影響を与えうることが示された重要な結果であり、今後さらなる大規模臨床試験への期待が高まっています。なお、この治療において有害な副作用は認められず、安全性の面でも良好な結果でした。
現在、世界各国で糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の臨床試験(患者ボランティアを募って効果と安全性を検証する研究)が進行中であり、今後数年でより確かなエビデンスが蓄積される見込みです。
それに伴い、幹細胞治療が一般診療で利用できる日も近づくことでしょう。
糖尿病網膜症に対する幹細胞治療の安全性と副作用
新しい治療法を検討する際に気になるのが安全性ですが、幹細胞治療については現在までの研究で概ね良好な安全プロファイルが報告されています。
特に間葉系幹細胞(MSC)を用いた治療は、他の細胞療法に比べても安全性が高いことが知られています。間葉系幹細胞は腫瘍(ガン)のリスクが低く、また免疫拒絶反応を起こしにくいため他人由来の細胞でも安全に投与できる可能性があります。
実際、先述の臨床研究でも幹細胞を点滴投与した患者に急性・慢性を通じて重大な副作用は認められず、生理食塩水を投与した対照群と比べても安全性に差がないことが確認されています。
このように、現時点で報告されている範囲では幹細胞治療は患者さんに大きな負担を強いることなく施行可能な、安全性の高い治療と考えられています。
もっとも、糖尿病網膜症に対する幹細胞治療はまだ研究段階であり、安全に最大の効果を引き出すための工夫も進められています。例えば、幹細胞をそのまま目に入れる方法ではなく、幹細胞が産生した有効成分(エクソソームなどの幹細胞培養上清)を利用するアプローチが検討されています。
この方法では細胞そのものを使わないため免疫反応や細胞が増殖して膜を作るリスクを回避でき、安全面でより安心できると期待されています。
実際、動物研究では幹細胞を直接眼内に移植すると一時的に炎症反応が起きる場合がありましたが、幹細胞培養上清(コンディションドメディア)だけを注入した場合は網膜の炎症が起こらず、むしろ神経細胞が保護され視機能が改善するという結果が得られています。
この成果は、幹細胞治療の「安全性」と「効果」を両立させる新しい手法として注目されます。
以上より、幹細胞治療は従来の治療法と比べても副作用が少なく、安心して受けられる可能性が高い治療法と言えます。ただし、新しい治療である以上、治療を受ける際は十分な説明を受け理解した上で臨むことが重要です。
今後の研究によってさらに安全性に関するデータが蓄積されれば、糖尿病網膜症に対する幹細胞治療はより安全で確立された医療となっていくでしょう。
おわりに
糖尿病網膜症に対する幹細胞治療は、現在進行中の研究が示すように大きな可能性と希望を秘めた最先端医療です。これまで諦めるしかなかった網膜のダメージを修復し、視力を守れる未来が少しずつ現実味を帯びてきました。
もちろん臨床応用には更なる検証が必要ですが、国内外で精力的に臨床試験が行われており、数年先には実用化が視野に入ると期待されています。患者さん・ご家族にとって、幹細胞治療は**「失明の不安にブレーキをかける」新たな光**となり得るでしょう。
糖尿病網膜症の治療について不安を感じている方、新しい再生医療に関心をお持ちの方は、ぜひ専門の眼科医療機関にご相談ください。
幹細胞治療はまだ保険診療ではありませんが、臨床研究への参加募集など情報が更新されています。最新の知見に基づいた治療選択肢について、専門医と十分に話し合ってみることをおすすめします。
当院でもこうした最先端治療に関するご相談を随時承っておりますので、お気軽にお問い合わせください。糖尿病網膜症でお悩みの方々に、一日も早く新しい治療の恩恵が届くことを願っています。